約束を守れなかったあの子との約束を、僕はまだ大切に持っている。
“これは私たちが結婚するときに返してね”
ピンク色が映える可愛いブリキ製の車型メガネケースには、見慣れた文字が綴られている。
約束は果たせなかった。
裏切ったのは僕だ。
なのに、
ずっと捨てられないでいる。
👓
学生時代の恋愛を覚えているだろうか?
僕が高校生の頃は今ほど連絡手段がなく、
ようやく固定電話を脱してPHSを持ち始めたくらいだった。
メールで気軽に告白できるようになっても、やっぱり気持ちは会って直接伝えたいよね、という時代だ。
少し前までは「8時に電話するね」と打ち合わせして子機を握って待ち構えていたり、手紙のやり取りをしたりとレトロな恋愛が主流だった。
あのメガネケースを捨てられないのは、今の世の中では想像できない昔の恋を記憶しておきたいからなのかもしれない。
過去を引きずるというのではなく、
過去の尊い恋愛をゴミ箱にいれるのが嫌なんだ。
でも、
ずっと残しておく訳にはいかない。
だから僕は過去を捨てるため、ここに記憶を残すことにした。
あれは体育祭のあと、
受験勉強が本格化した高3の夏の終わり。
同じクラスの男子数名は2つの校舎を結ぶ最上階の渡り廊下に集まっていた。
目の前の現実を忘れられる、ひとときの休息。
大げさな笑い声と、
ふざけたノリで過ごす昼休み。
生徒は日を重ねるたびに増えていった。
誰もが残りわずかな高校生活を噛みしめたかったんだろう。
しかし、
やすらぎの空間は一人の男子生徒によって失われてしまう。
彼は老朽化の進んだ手すりにぶら下がると、数日であっさり壊してしまった。
叱責をのがれるため「勝手に壊れた」というウソの報告をしたことから、工事が終わっても廊下は利用禁止となった。
学校サイドの見せしめによって、僕らは楽園から追放されたのだ。
昼休みの教室は1分でも長く勉強したい生徒の熱気に満ちていて、居場所のない仲間は仕方なく散り散りになって小さな集落をつくっていった。
僕は2人の友人を連れて1階の中庭にあるベンチに腰をおろすことにした。
近くには1年生の教室がある。
半袖から合い服への衣替えが進む10月の中ごろ。
3人はいまだに中庭で時間をつぶしていた。
いつも通り意味のない話をしていると、急な尿意に襲われる日があった。僕は昔から温度変化に弱いんだ。
友人に荷物をあずけ、
一人トイレに向かって走る。
ちょっとだけ遠かったから、
かなり急いでいた。
👓
「先輩!」
目的の場所が迫ったとき、
唐突に呼び止められた。
建物の死角から声をかけられたので大きく体がフラつく。
振り返ると、
ひとりの女子生徒が立っていた。
見たことある顔。
誰だったかな…
僕はすぐに思い出した。
通学時に時々ついてくる2人組の片割れだ。
真後ろで声をひそめているので気になって顔を覚えた子。
チラッと見たとき、持っているサブバッグが新しいので新入生と分かった。
あぁ、この子なんだ。
通ってる塾の後輩から、僕に好意をもってる1年生がいると聞いていた。
だからすぐに理解できた。
『いまから告白されるんだな』って。
👓
おしっこ…
立ち止まった僕は焦っていた。
女の子はなかなか言葉が見つからず、モジモジしている。
君もおしっこなのか?
冗談が言えるような状態ではなく、限界を迎えるまでに30秒もかからなかった。
「トイレに行ってもいいかな?」と言って駆け出す。
申し訳ないことをしたと思う。
でも、必死だったんだ。
備え付けの鏡で変わりようもない髪型をいじり、無駄にうがいをして緊張しながら出た。
そこには大勢の女子生徒が集まっている。
女の子が泣いていた。
しまった
もうなす術はなく、
合流した2人の友人に冷やかされながら教室へ戻った。
👓
あのとき僕が何を考えていたのか、
今では思い出すことができない。
僕は高校デビューに派手に失敗した、根暗で挙動不審なメガネだった。
世間知らずのまま高校生になり、他校出身の大人びた生徒と上手く付き合うことができず悩んだ。
中学で仲の良かった友人は一人も同じ高校に進まなかった。
入学前に始めた歯の矯正もふさぎ込む原因になっていた。
もともと陽気だった性格が中学時代から想像できないほど暗くなっていたんだ。
『我慢しよう』
3年間、
波風を立てぬように、
目立たぬように生きていこう。
そう心にきめていた。
華やかなグループでなくても、数人の友達がいるだけで幸せだと思った。
部活で女性と話すことはあった。
でも、それ以外で話す女子はいなかった。
👓
入学から2年半。
相変わらず異性とは数えるほどしか話していない。
運良く彼女はできたけど、それも部活内。
内輪の世界でしか女性と話せないままだった。
だから告白を察知したとき、トイレに駆け込んで安心した記憶がある。
苦手だったから。
女性と面と向かって話すのが怖かったんだ。
でもそれは結果的にその子を傷つけることになった。
教室へ戻る僕に友人は何か話しかけたけど、耳に入ってこなかった。
👓
数時間後、
思い悩んで迎えた掃除時間。
僕は1年生の教室へ向かっていた。
昼食メンバーの一人を連れて。
女の子をみつけると、何十回も心の中で練習した言葉を伝えた。
「さっきはゴメン。話すのが苦手なのでメールをくれませんか?」
僕は1ヶ月後に付き合うことになる女の子にメモをわたし、唖然とする相手と言葉を交わさぬまま教室にもどった。